伊豆石文化探究会

~伊豆石を知れば、世界が変わる、繋がる、楽しくなる~

伊豆石の世界を動画にしてみました。伊豆石が使われたもの、伊豆石の石切場、伊豆石に関わった人々の想いその一部をご覧ください。伊豆石の見え方が変わります。

活動

伊豆石文化探究会は、地域文化や日本の歴史に大きな影響を与えた「伊豆石文化」を見つめ直し、探究、研究、継承、醸成していくための団体です。全国では、大谷石、房州石、札幌軟石等、地元の「石文化」に注目した地域おこしの機運が高まっています。伊豆石とは…伊豆石はかつて伊豆半島で盛んに採石された石材でした。伊豆石は日本の歴史に与えた価値と裏腹に、まとまった研究や周知活動が行われぬまま消えていこうとしています。メンバーは北は北海道、西は滋賀県…年代は20代~70代…会社員、自営業、大学教員、建築関係者、公務員、ジオ関係者…フィールドワーク等の中心は伊豆半島付近ですが、伊豆石に限らず幅広い趣味のメンバーが交流しています。

研究

伊豆石の研究は、江戸城の城郭研究や、墓石等の近世を中心に調査が進んできました。近年駿府城、高輪築堤など日本史上重要な事業に伊豆石が関わってきたことが分かってきていますがその全貌はいまだ把握されていません。当会では主に、空白域となっている石蔵や近代遺産に使用されている伊豆石についてのフィールドワークや研究を進め、学会発表なども行っています。伊豆石が関わるエリアをつなぐ伊豆石文化圏の姿を探究し、伊豆半島とその周辺の石材文化を深く楽しもうという取り組みです。

伊豆石の基礎知識

調査イベント関係資料

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広報

伊豆石文化探究会では、伊豆石について多くの方に理解を深めていただくため、講演活動や展示活動を行っています。また、日本全国の石をテーマにした地域おこしの取り組みと繋がるための交流やネットワークづくりに力を入れています。伊豆石に限らず、地域の知られざる文化や魅力について学ぶことが好きなメンバーが集まっています。伊豆石を後世に伝える方法を模索しています。

寄付と情報提供のお願い

伊豆半島やその周辺の伊豆石が使われた石造建築物は、その特徴的ないでたちからカフェ利用、店舗利用などわずかな活用事例がある一方、メンテナンスが難しく、老朽化から解体されるものが後を絶ちません。しかし、重い石を運ぶ技術、高価だった石材の費用…伊豆石には様々当時の人々の想いが詰まっています。会員の中にも、先祖から「大事にしてほしいと」受け継いだ石蔵を泣く泣く解体し、後悔しているという方もいます。「誰も知らないうち…」「記録もなくて何も分からない…」といった悲しいことが少しでも減っていくよう、伊豆石の正しい価値を知った上で、有効利用、保存、記録、解体など様々な選択肢を提示したいというのが私たちの思いです。

宇都宮市では限りある貴重な石材を、解体される建物からストックして再利用するなどの取り組みも行われています。もし皆様の身近でこのような情報がありましたらご相談ください。私たちの活動が、伊豆石文化の復興に繋がっていくことを願っています。 

伊豆石文化探究会

伊豆石の50年の歩み

1974年:「伊豆石と江戸城」『歴史手帖』2巻9号(鈴木茂)

1979年:『江戸城・大阪城と伊豆石 : 伊豆稲取』(稲取ふるさと学級)

1981年:「江戸城と伊豆石」1〜5『伊豆新聞』連載コラム(鈴木茂)

1991年:『史跡石垣山Ⅰ』小田原市文化財調査報告第35集(塚田)

1991年:『宇佐美北部石丁場群分布調査報告書Ⅰ』伊東市教育委員会

1992年:『史跡石垣山Ⅱ』小田原市文化財調査報告第38集(塚田)

1993年:『史跡石垣山Ⅲ』小田原市文化財調査報告第44集(塚田)

1994年:「伊豆石丁場遺跡調査の現状」『江戸時代の生産遺跡』(岡田善十郎・金子浩之)

1994年:『ほっといず』第49号(加藤)により紹介

1995年:「江戸城石垣と伊東の石切場」『伊東・文化財とその周辺』(鈴木茂)伊東市教育委員会

1995年:「第7章 伊豆石丁場と都市江戸の構築」『江戸城外堀跡 赤坂御門喰違上橋-地下鉄7号線溜池駒込間遺跡発掘調査報告書3-』(北原糸子)

1995年:「第8章 江戸における石材流通」『江戸城外堀跡 赤坂御門喰違上橋-地下鉄7号線溜池駒込間遺跡発掘調査報告書3-』(小沢詠美子)

1996年:「豆州戸田村の石材切出し(二)」『伊豆史談』125号(高本)

2000年:『考古学論究第7号』(金子浩之)により紹介

2001年:『小田原市郷土文化館研究報告』No.37「早川小田原産の江戸城石垣石ー加藤肥後守石場から献上石図屏風までー」(内田)

2003年:「江戸城の石切丁場」『石垣普請の風景を読む』(金子浩之・杉山宏生)

2007年:『早川丁場群関白沢支群』かながわ考古学財団調査報告(三瓶)発行

2008年:『発掘調査成果発表会・公開セミナー発表要旨』「事例報告小田原市内の石丁場について」

2009年:『熱海市内文化財調査報告書:熱海市内伊豆石丁場遺跡確認調査報告書』熱海市教育委員会

2010年:『江戸城城下と伊豆石』江戸遺跡研究第24回発表要旨(江戸遺跡研究会)

2010年: 『伊東市埋蔵文化財調査報告:静岡県伊東市伊豆石丁場遺跡確認調査報告書』伊東市教育委員会

2011年:『江戸の石を切る』発刊

2012年:『史跡石垣山早川丁場群関白沢支群』発行

2012年:「地域未来遺産・伊豆石の蔵」調査(公益社団法人静岡建築士会西部ブロック)

2013年:『石を切る 採石技術の伝統と革新』「石垣普請と石切技術の伝播」歴博フォーラム8

2014年:下田市にて南豆製氷解体問題に伴う住民運動の末に解体

2014年:巡回展『伊豆石の蔵』開催(公益社団法人静岡建築士会西部ブロック)

2014年:静岡市清水区にて石造建築物悉皆調査(しみず蔵倶楽部による調査報告)

2014年:『沼津市博物館紀要第38巻沼津の石丁場調査報告(1)戸田石丁場群南西部』発行

2015年:『小田原市文化財調査報告書第175集』「早川石丁場群関白沢支群分布調査報告書」発行

2015年:『沼津市博物館紀要第39巻沼津石丁場調査報告(二)西浦地区発行』発行

2015年:『江戸築城と伊豆石』(江戸遺跡研究会)発刊

2015年: 『熱海市内伊豆石丁場遺跡確認調査報告書』熱海市教育委員会

2018年:「下田市歴史維持風致計画」に伊豆石が明記

2019年:静岡市清水区にて横浜国立大学常葉大学みなとまちプロジェクトによる「伊豆石」観光利用の提言

2019年:任意団体伊豆石文化探究会発足

2019年:宇都宮市文化庁による日本遺産事業“石の街サミット”への伊豆石活動家たちの参加

2020年:「[報告]近代初頭における天竜川下流域の治山と木材流通 材木と伊豆石を巡って」『常葉大学造形学部紀要』18号(土屋和男)

2020年:沼津市しずおか街並みゼミ開催(伊豆石文化探究会主催)

2020年:『史跡江戸城石垣石丁場跡保存計画』熱海市教育委員会

2020年:熱海市第1〜7回江戸城石垣石丁場跡セミナー開催

2021年:磐田市文化財保存活用地域計画に伊豆石が明記

2021年:伊東市「史跡江戸城石垣石丁場跡(宇佐美北部石丁場群)保存活用計画書」

2021年:「静岡県東部石造建築物悉皆調査報告書」発行(伊豆石文化探究会)

2021年:遠州遺産100に「伊豆石」登録

2021年:「大谷地区そして大谷石文化の発展を考える~伊豆石に関する視察を通して~」『宇都宮共和大学都市経済研究センター年報』21巻(西山弘泰)

2021年:「関東近県の軟石:大谷石・房州石・伊豆石の比較と都市間ネットワーク 「石のまち」における石材産業と石造建造物に関する研究 (1)」(安森亮雄・小林基澄)

2022年:藤枝市茶町にて大型石造倉庫の保存に伴う市民活動(アジカンボーカル後藤さんなども参加)

2022年:「忘れ去られた日本近代国造伝説 伊豆石産業史の視点」1〜5『伊豆新聞』連載コラム(剣持)

2022年:「伊豆石の文化圏と地域性に関する研究 その1」(塩見)日本建築学会大会発表

2022年:「伊豆石の文化圏と地域性に関する研究 その2」(剣持) 日本建築学会大会発表

2022年:「明治期から大正期における伊豆半島における石材産業の動態把握とその要因」(剣持)歴史地理学会大会発表

2023年:一般社団法人伊豆石文化探究会設立

2023年:「伊豆石産業遺産群」がぬまづの宝100選に登録

2023年:藤枝市大型石造倉庫解体

2023年:「下田市石切場の3D点群取得及び歴史的価値評価報告書」発行(一般社団法人伊豆石文化探究会)

2023年:「沼津市西浦地域の伊豆石で構成された景観に関する考察 伊豆石の文化圏と地域性に関する研究 その3」(塩見) 日本建築学会大会発表

2023年:「明治期の東京府における伊豆半島産石材の建築利用 伊豆石の文化圏と地域性に関する研究 その 4」(剣持) 日本建築学会大会発表

2024年:磐田市掛塚しずおか街並みゼミ開催(掛塚みんなと倶楽部主催)

2024年:沼津市文化財保存活用地域計画(案)公表

伊豆石とは?(基本情報)当会研究前の伊豆石の見解

「伊豆石とは?」この質問を投げかけると十人十色の返事が返ってきたりします。伊豆石文化の領域は広大でひとことで理解することが難しい!そんな事情が今まで伊豆石の観光利用や正しい理解への道を妨げてきました。下にまとめたのは、今ままでの研究者たちの見解から、伊豆石とは何かのヒントを探るために作ったつぎはぎの文章です。研究者たちにとって、伊豆石とは一体なんなのでしょう?

伊豆石は大別して安山岩の堅緻な質のものと、凝灰岩質石材の軟質のものの二者がある[1]。歴史的に見て、伊豆石の名が一世を風靡することになったのは、慶長年間に始まる江戸城改修築工事によるものであり、小田原以南の相模湾岸も良い石材産地であったが、同じ安山岩系の石なので(中略)これも伊豆石と呼ばれていた[3]。江戸時代後期や明治期になると、伊豆石と言えば凝灰岩系の軟らかい石という常識が成立していた[3]。伊豆軟石の使用は、明治の擬洋風建築のなかに多量に採り入れられることによって、明治の前半を中心にして最盛期を迎える。伊豆産石材の使用例を手操ると、東京を中心とした日本の代表的な近代建築のほとんどすべてのものに伊豆石は使用されていると言っても過言ではないように感じられる[4]。現在(小松石等神奈川県の石材を除くと)伊豆半島からの伊豆石は産出されていないが、近年まで採石されていた伊豆石の一種「伊豆若草石」は静岡県地域遺産に認定されている[2]。2021年現在伊豆石について、文化を掘り起こし、まちづくりに活かそうと活動している伊豆石文化探究会では、任意団体ながら活発な調査、研究、情報発信を行う一方で、全国的なネットワーク構築を目指している[5] 

?[1]金子浩之「近世伊豆産石材研究ノート」『考古学論究第7号』立教大学考古学会、2000年1月15日、275-276頁。[2]“地域産業資源の内容”. 静岡県. 2021年10月5日閲覧。  [3]加藤清志「伊豆石と澤田石」『伊豆歴史文化研究 特集「伊豆の石」第3号』伊豆歴史文化研究会、2010年11月18日、19-20頁。 [4]金子浩之「伊豆石と澤田石」『近世伊豆産石材研究ノート』立教大学考古学会、2000年1月15日、280頁。 [5]西山泰山「大谷地区そして大谷石文化の発展を考える~伊豆石に関する視察を通して~」『宇都宮共和大学都市経済研究センター年報21巻』宇都宮共和大学都市経済研究センター、2021年、96頁。 

伊豆石の歴史(執筆中)※当会研究前の伊豆石の見解

古墳時代

賎機山古墳(静岡市)には、伊豆白色凝灰岩を加工した家形石棺が納められていた。こうした白色の石材を中心とした伊豆凝灰岩性の石棺は、賎機山古墳の石棺以降、静岡平野の鵜戸山西麓の古墳にも見られ、7世紀代には黄瀬川流域など田方平野周辺にも分布することが知られている。また、8世紀代には同様の石材を用いた火葬骨納用の石櫃がつくられ、狩野川西岸活きの横穴墓に納められる例等が知られるこれらの様相は、伊豆凝灰岩を原石材とした大型石材の石工技術が定着した事例として注目できる[6]

[6]『静岡県文化財調査報告書』静岡県教育委員会文化財保護課、2015年。 


近世城郭と大火復興

伊豆石は、伊豆半島北部東海岸の熱海から稲取、西海岸の沼津から土肥にかけて採石が盛んで、石材は下多賀・上多賀・宇佐見・稲取・河津・戸田等の港から江戸や駿府に積み出されたと考えられている[7]

西相模を含む伊豆半島は、中世以来多くの石材を各地に供給してきた。特に、徳川江戸城の築城においては、町づくりを含め、伊豆の石材は欠かせないものであった。壮大な石垣用の石材は、ほとんどすべてを相模西部から伊豆半島沿岸の火山地帯で調達し、海上を船舶輸送して築いたものである[8]。伊豆の山々で切り出された石材は、海上輸送のために山中から海際まで石曳き(いしびき)され、江戸着船後も、現在の銀座丸の内あたりの街区の上を再び石曳きされて場内の普請丁場に運ばれているのである。その実行者は、諸国から大量に動員された大名領の百姓や賃金雇いの日雇たちであり、これが江戸城下で競い合い、ひしめき合いながら石曳きをした[9]

また主に堅石の伊豆石は、静岡市の駿府城や久能山に使用されていたことも分かっている。沼津市井田の井田高田四郎家文書、宝暦・明和・文化年間の井田村「村差出帳」に、水戸徳川家の石丁場と、江戸・駿府城の為に石を切り出した公儀の石丁場が所在した記録が残っている。また、細田家史料には、「駿河様御丁場」の記載がある。沼津市重寺村付近の、地元の室伏家文書には、天和年間に江戸の町人請負、寛永六年頃に駿河徳川家、寛永十二年頃に越前最小、享保十四年「村差出し」などから駿府城久能山江戸城の御用石を商人請負で切り出していたことがわかっている[10]

明暦2(1857)年には、明暦の火災があり、「むかしむかし物語」(『東京市史稿』産業篇第4)中に、「明暦正月中大火事、翌年に至ても御白の御普請、江戸中大名衆普請故、舟はいか様の小舟迄も、木材石材運舟と成て、中々涼の屋形舟一艘もなし」とあり、江戸城及び城下、諸大名の普請が急増し、これに必要な木材と石材運搬のため大型船はもとより小型船までもがこれに向けられたと記されている。また、小田原藩永代日記(『神奈川県史』資料編4近世(1))中には明暦の大火により焼失した江戸城本丸普請の石材8,400個を確保するために、岩村、真鶴村に老中覚書が出され、必要石材の確保を命じたことが記されている[11]

[7]秋池武『近世の墓と石材流通』高志書院、2010年5月25日、167頁。 [8]杉山宏生「西相模・東伊豆の安山岩石丁場」『江戸築城と伊豆石』吉川弘文館、2015年5月1日、33頁。 [9]金子浩之「あとがき」『江戸築城と伊豆石』吉川弘文館、2015年5月1日、263頁。 [10]鈴木裕篤・原田雄紀「沼津市域の石丁場遺跡」『江戸築城と伊豆石』吉川弘文館、2015年5月1日、75-76頁。[11] 秋池武『近世の墓と石材流通』高志書院、2010年5月25日、133頁。 

伊豆石が使われた建築物について

公益信託大成建設自然・歴史環境基金の助成事業を受けて、当会(伊豆石文化探究会)が 2020 年度〜2021 年度にかけて行った静岡県東部の市町村を対象とする石造建築物の分布調査と関連する資料調査の結果、沼津市、三島市、清水町、長泉町、函南町の5市町で、約 400 棟の石造建築物(石蔵や納屋や長屋門など)が現存することが判明しました。同時に行われた史料調査では近代伊豆石産業によって産出された伊豆石が京浜方面の土木・建築物(銀座煉瓦街、当時の官庁ビル群、初期の銀行関連施設、軍関係の施設、御用邸、民間の商家、品川台場・横須賀製鉄所・新橋横浜間鉄道など近代)代表する土木事業全般)などに使用されていた記録が発見され、伊豆石産業の日本近代への影響の大きさが明らかになりつつあります。現在までにも、過去に当会会員らが関わった下田市の石造建築物の調査や、天竜川流域(100棟以上)の石造建物の調査、清水区の旧清水湊エリア(約20棟,市内全域は約90棟)の蔵の調査などでも、伊豆石が使用された建物が多数あることが判明してきており、伊豆石の建物がの静岡県から京浜に及ぶ範囲の重要な特色であることが判明してきました。

当会では、今後会メンバーの数人から伊豆石の研究に関して関連する学会への投稿、発表を行いながら「伊豆石」の学術的価値の向上に努めていきます。しかし、一方で自由な動きの取れる市民団体である側面を活かして、伊豆石のことを一般の方により知っていただくことが何よりも大切になると捉えています。伊豆石文化、伊豆石産業へのご理解ご協力をお願いいたします。

「伊豆石」という言葉について

近代伊豆石研究者たちの見解では、日本の石材産業研究は『日本石材史』(1956)が基になっている点が多いようです。『日本石材史』(1956)では、伊豆長岡の石工が宇都宮に技術を伝えて盛んになった「大谷石」産業の大正期からの石材産業に大きく焦点を当てています。ここでは「伊豆石」は既に「横根沢石」「小松石」などの産地が特定された石材として記載されて、半ば過去のものとして扱われているものもあります。しかし、『伊豆歴史文化研究「伊豆の石」第3号』(2010)加藤執筆箇所では、三省堂『日本百科大辞典』明治41年などの当時の辞書から「伊豆石」という単語が、伊豆半島や相州西部の安山岩、凝灰岩などの石材の総称として認識されていたことを明らかにし、「伊豆石産業(伊豆半島及びその周辺の石材産業)」が明治期の近代石材産業上相当の割合で首都圏に需要があったことを指摘しました。また、江戸期の御用石丁場の記録や明治初期の石材調査記録などからも「伊豆石」という単語が登場していることが確認できます。同時期に伊豆半島から技術伝播によって切り出しが盛んになったという「房州石」に対しても、金谷石などの名称が明治期の文書に存在します。房州石関係者への質問では、「房州石」は石材業者がブランディング化の一環でこの名に統一したのだということでした。

これらの事実から当会では、「伊豆石」は元々御用石として使用用途が限定され官の一元的な管理の中細かな分類がなかったものが、明治期に管理が民間に移譲され、民需に転じる中で用途が多様化し、質などにも差があるので産地名を冠した名称が出現した(しかし一体的にブランディングすることも不可能だった)。そして、昭和期にはコンクリートの出現によって後退する中で需要のあった石材名が残っていったため様々な呼び分けがあり混乱を招いていますが、逆にいえば近世石材産業から近代石材産業への転換に深く関わったがゆえに捉えられ方が複雑化したのだと捉えています(2022.01現在)。