盛衰

古墳時代

伊豆半島の良石がいつごろから認識されていたかを知る手掛かりとして、古墳時代に注目する見方があります。6世紀から7世紀の古墳の石棺を伊豆石で作る技術が広く伝わっていたようです。賎機山古墳(静岡市6世紀後半)、丸山古墳(静岡市6世紀後半)、伊豆半島基部では原分古墳(長泉町7世紀)、伊豆の国市では「白石の石棺」には伊豆石(軟石)が使用されました(写真は原分古墳の石室、付近に石棺も展示されています)。伊豆の国市の北江間横穴群では、伊豆石が使用された石櫃も出土しています。

御用石の需要

1600年代初頭、江戸幕府の江戸城築城や駿府城築城にあたって大量の石材が必要となりました。この時期の多くの丁場が開かれ、伊豆石(堅石)の需要が急増しました。各大名は、石垣の割り振られた部分を完成させるために伊豆半島で多くの丁場を保有しました。刻印と呼ばれる石に刻まれた大名の印を頼りに研究が進んでいます。伊豆半島の東海岸が江戸城の石垣用御用石の主な産地となりました。西海岸では駿府城用の石材も切り出されました。明暦の大火の後、江戸の復興に当たっても多くの伊豆石が使用されたとされています。

低迷期

1712頃から、御用石の切り出しが落ち着くと、伊豆石の需要が減少していく時期に入ります。相州では、50箇所以上あった丁場が30数か所になるなどの記述や、石切りだけでは生活が困難であるため漁業との兼業を始めるような事例も確認されるようになりました。江戸では、民需の面で墓石が多く出回っていましたが、伊豆石から関東の石材に需要が移っていく時期でもありました。

復活期

1853年、浦賀にペリー提督が来航すると、江戸幕府は国防の必要性に迫られました。韮山代官所の江川太郎左衛門英龍は、品川台場の設営や反射炉の事業を任され、これに多くの伊豆石(堅石)が使用されるようになりました。品川台場ではオランダ式の設計が採用されましたが、石丁場の選定や積石の技術は築城時代のものが採用されました。そのほかにも、幕末から明治初期にかけて、造船所の建設や日本初の鉄道事業など様々な土木方面での需要が興りました(フリー画像)。

近代の建築への需要

明治期の欧米からの技術導入により建築の分野でも煉瓦造や石造の建物が建てられるようになりました。伊豆石(軟石)は、加工がしやすく火に強いという利点があったので、近代建築の装飾や横浜や東京で懸案となっていた火事の起きにくい街づくりのための建築材として普及するようになりました。堅石では伊豆の国の「横根澤石」、軟石では河津町の「沢田石」が良石として重宝されました。日本橋や京橋では、防火帯を設けて煉瓦造や石造を推奨するエリアまで存在していました。横浜の外国人居留地の街づくりにも伊豆産の石材が使われました。画像は片山東熊の建築、京都国立博物館です。明治20年代に東京府で出回った石材の約4分の3を伊豆半島の石材が占めていた記録が残っています。これらの石材は、不平等条約改正を目的とした京浜の都市改造に貢献しました。

地元の石材へ

皮肉にも、伊豆石の東京での需要を衰退させたのは、伊豆石の石工達が持っていた「タテギリ」という特殊な技術でした。大正期に入ると、伊豆長岡の石工が栃木県宇都宮市の大谷石の石切り場に、石材を安定して切り出すことのできる技術を伝えました。大谷石は豊富な資源を背景に首都圏での需要を確固たるものとし、伊豆石の需要は相対的に減衰していきました。静岡県の西部や近くの地域への販路を開拓し、地元の石材として戦後まで長く使用されるようになりました。

執筆者:剣持