伊豆石コラム第

旧国登録有形文化財「南豆製氷所」の保存活動は、その後の下田市の歴史・文化・伝統に大きな影響を与えました。現在になって、「伊豆石」によって建てられた建物の、日本近代史上の重要性が次々と明らかになっています。

→下田市の伊豆石産業遺産群の一覧例を見る。

※下田市景観計画(平成27年6月改正)(外部サイト)

※下田市歴史的風致維持向上計画(平成30年11月認定)(外部サイト) 

下田の伊豆石産業遺産群とは

画像:下田市ペリーロード

 かつて下田は、江戸大阪間の風待ち港として栄えた港町でした。この港を経由して多くの物資が、江戸へ向かいました。一方で、火山活動によってできた伊豆の先端部にあるという特徴から、石材が豊富に採られました。東海道中膝栗毛を執筆した十返舎一九は、伊豆紀行の中で下田を訪れた時にこのように述べています(1800年代初頭)。

「この辺りの山より伊豆石を切り出すゆゑ、洞の如き岩窟多し、下田よりあいの山峠にかかり…」

画像:品川御台場(上)とワシントン記念塔(下)

 幕末になると海外から江戸を防備するために石材需要が加速。ペリー提督は、開港後の下田で伊豆石の記念碑を受け取り、ワシントンに持ち帰りました。現在石碑はワシントン記念塔内にはめ込まれ、観光客も見ることができます。

 明治元(1868)年に明治政府に雇われたイギリス人技師リチャード・ブラントンが下田を視察しました。近代化事業に使う良質な石材の調達に苦心していた彼は下田に目をつけ、イギリス人の石工たちを送り込みました。

 以後この地で採られる良質な石材は、明治期を通して半世紀ほども横浜の近代都市化や東京の近代都市化に多大な貢献を果たしました。少なくとも明治中期まで、伊豆半島全土からの石材は、京浜に出回った石材のおよそ7から8割を占めていました。

画像:旧新橋駅(現在は再建されて鉄道博物館の下田産の石材が使われた基礎遺構が発掘当時のまま展示されている)

画像:「横浜各国商館之図」歌川広重(3世)1871年東京都立中央図書館

 例えば、下田沖の神子元島灯台(石造)、横浜外国人居留地の日本初の近代道路工事や街並み、日本初の鉄道駅舎新橋駅・横浜駅などには下田産の石材が使われました。また日本初の近代都市計画の東京銀座煉瓦街の建物の外壁などにも下田の石材が使われたと考えられます。

画像:東京銀座要路煉瓦石造真図」歌川国輝二代画明治6年(1873)東京都立中央図書館蔵

 石材の輸送には、地元の有力者が帆船を所有して貢献しました。例えば、下田まち遺産の「雑忠」鈴木家は石材輸送を担った「蓬莱丸」を所有して廻船問屋を営み、日本の近代都市化の一端を担いました。

 現在下田市内に残る伊豆石の建物は、当時の下田の重要性と、外国人たちとの交流によって生じた日本の近代都市の源流が、下田にあったことを証明しており、日本の近代に迫るための歴史的資産です。

画像:鈴木忠吉氏所有帆船「神力丸」

 下田産の一部の石材の特徴である、波打つような斑模様を見てある市民は呟きました。

「波のように見える模様には、海と共に生きてきた下田の人々の層風景が反映されているみたいだ」

この感覚が後世にも残っていってほしいと思います。

画像:下田市大沢の石切場