運搬

人力輸送

江戸時代、天下普請によって江戸城や駿府城が築城された際には、人力によって山から海まで石材を運びだす大掛かりな切り出しが行われていました。丸木などに石を転がして大勢の人で石材を運びました。現在でも、静岡県伊東市ではこの時の石曳を真似たお祭りが行われています(画像:『石曳図絵巻』神奈川県立博物館所蔵)。 

大中型船舶輸送

江戸時代、天下普請によって江戸城や駿府城が築城された際には、大型船によって石が輸送されました。3000艘もの船が動員されたという記載もあります。

明暦の大火による復興材としても、伊豆石は多く供給されました。その際にも、江戸の多くの船が出払ってしまったようです。

これら江戸時代には、遠距離の石材輸送には千石船(画像:『伯耆国の藩倉と千石船』関本誠治 著より)が利用されたようです。

明治時代大正時代には、スクーナー船などの洋式帆船(画像『続豊治 : 近世名船匠伝 改訂版』興梠忠夫 著)の技術によって、輸送船の形態が変わっていきました。明治末期、静岡県内に登記された船舶のうち、およそ3割が石材輸送に従事していたという記録が分析結果も得られました。

明治期大正期の船舶輸送では、各湊を寄港しながら様々な物資を積んだ帆船が、首都圏や西国を行き来し、その過程で伊豆石が流通しました。地図は、船舶の寄港地や登記地を示したものです。

伊豆石は、船の転覆を防ぐためのバラスト代わりとして流通していったとも言われています。

牛車輸送

江戸時代には耕作用に牛が用いられていました。切り出した石材の輸送に当たっても牛が使用されたという記述があります。明治期に入り、石造灯台などの事業に従事したお雇い外国人ブラントンが日本での航海中、牛を購入しようと交渉した際、「殺して食用にするなら売ることができない」と断られたという手記も残っています(結局値上げ交渉をして誤魔化して何とか買い付けたそうです)(画像:京田辺市公式サイト)。

馬力輸送

明治期以降になり馬車道が整備されると、伊豆半島東部では地産地消の石材として馬力による石材運搬が行われました。沼津市で切り出された石材が、富士市の吉原付近まで運ばれるなど、海から離れた農地や山方まで流通するようになりました(画像:サイト「銀の馬車道」 )。

鉄道輸送

明治期に、東海道線や駿豆線や蛇松線が開通すると、京浜地域や静岡県西部への輸送手段として鉄道を用いるようになりました。風待ちのいらない鉄道は、船よりも素早く安定した石材供給に貢献しました。

現伊豆市や伊豆の国市などからの伊豆半島内陸の石材は、大仁駅、原木駅などに搬入されて駿豆線を利用して、首都圏に流通しました。

しかし、現伊豆の国市からの伊豆半島内陸の石材でも、現在の伊豆長岡地域などの石材は、伊豆半島西海岸に向けて口野の切り通しを通って、多比や口野に運ばれたのちに船舶輸送されたり、三津坂隧道を通って運ばれて三津浜に搬出し、船舶輸送されたりしました。

多比や口野からの石材は、船舶輸送で沼津港に運ばれると蛇松線に切り替えて沼津駅まで運ばれ、そこからさらに東海道線に切り替えて首都圏などに輸送されました。多比口野から船舶輸送にて、清水港に運ばれると巴川河口の清水湊で利用されたり、その先の江尻駅で東海道線に切り替えて、鉄道輸送で静岡中心部や西部に流通しました。

大正初期の輸送経路図

執筆者:剣持