伊豆石コラム第九号
伊豆石分類法の先人の功績
「伊豆石」を説明する時、多くの人が直面するのは、「伊豆石」の種類の多さによる分類の困難さであると思います。
「伊豆石」の生産遺跡の全体がまだ見渡せていなかった2000年代、「伊豆石の定義問題」に挑んだ研究者の方々がおられました。
・加藤清志:1994「火山の国に住んで」『ほっと・いず』第一七六号
・金子浩之:2000「近世伊豆産石材研究ノート」『考古学論究(7)』
・加藤清志:2010「伊豆石と澤田石」『伊豆歴史文化研究』第3号
上記の論考にある「伊豆石」の分類に関する分析は、伊豆石研究史の中でも極めて参考となります。
先人の功績①:「安山岩凝灰岩質分類法(本記事著者による用語)」の成立
加藤清志(1994)は、明治期から昭和にかけての百科事典上での「伊豆石」の用語の整理を行い
「伊豆石には大別して安山岩の堅密な質のものと、凝灰岩質石材の軟質のものの二者ある」
ことを指摘しました。
つまり、現在まで続いている伊豆石の安山岩・凝灰岩による分類法は『日本百科大辞典』第1巻、三省堂編纂書(M41)を基にして、安山岩=堅石・凝灰岩=軟石という分類が行われました。『日本百科大辞典』第1巻では、石材の用途については近代における両者の石材グループを広く網羅した説明が行われた上で、補足として徳川実紀三(慶長十一年二月の条)を紹介して近世の御用石について述べました(コラムの最後に"参考"として全文掲載)。
※加藤(1994)は、『日本百科大辞典』第1巻の「伊豆石」の説明を鵜呑みにしてはいけない点も示唆しており、実際、説明書きに疑問を感じる記述も散見されます。
先人の功績②:築城石「伊豆石」観からの脱却
金子浩之(2000)は、研究論文ではなく研究ノートとして、築城石を含む「伊豆石」の研究の最前線に立たれていた金子先生が推察する「伊豆石」像について、自由に幅広く論じたものであることにはご留意ください。
同論考では、地下鉄七号線溜池・駒込間移籍調査会の発行した1995『江戸城外堀跡赤坂御門・喰違土橋』所収論文に対し、
「江戸の石材流通に関する諸点が、参考文献資料を駆使して語られており、参考とすべき点が非常に多い。しかし、対象とされている石材は伊豆石のなかでも堅石と呼ばれる安山岩のみであり、江戸後期以降を中心に展開する伊豆産の凝灰岩質石材の動向については全く触れられていない」
と評価し築城石に偏った「伊豆石」観への問題点を明確にしました。
曰く、
「近世後期に江戸に向かう遠州船が、帰り荷に伊豆石を運んだ事例が存在することから考えると、中世にもこうしたことがあっても構わないものと思われる。膨大な数にのぼる中・近世石造塔の石材供給地の解明は、未解決の問題だと筆者はみているし、近世の大名たちの墓塔の多くが伊豆産石材で造立されている事実は、単に近世的商業資本の成立ということよりも、中世以来の伝統の存在を認めて初めて理解できるのではないかと考えている」
つまり、「伊豆石」を中世、近世、(近代)を通して行われていた産業として捉えています。
先人の功績③:「伊豆石」の「堅軟分類法(本記事著者による用語)」の成立
金子浩之(2000)は、
「現在では伊豆石の存在そのものが、ほぼ忘れ去られた状態にある。そのため、伊豆石に定義を下すことは、現状では難しいというのが正しいところであろう」
と慎重に前置きを行ったのちに、とはいえ、
「伊豆石を提起せぬまま、記述を進めるのは誤解のもとである」
そこで、
「以下では伊豆堅石とした場合は伊豆半島北部を中心に生産された安山石材を指し、伊豆軟石とする場合は軟質の凝灰岩質石材を指すものとしておきたい。単に伊豆石とした場合は、伊豆産の石材全体を指すものと理解されたい」
と定義しました。ここに、伊豆石の「堅軟分類法(本記事著者による用語)」が生まれました。
先人の功績④:「伊豆石」の近世の民生利用を含めた包括的研究の必要の提言
さらに、金子浩之(2000)は、
「近世前期の伊豆石生産に関して、現在までに研究の俎上に載せられているのは、殆どのものが江戸城に関係している資史料であり、その特異な姿が宣伝されて、底流にある筈の民生利用としての資料が見つからないことから、江戸城以外の部分に関しては殆ど実態が掴めていない」
としました。
そして、それら民生利用に関する伊豆石の史料について、
「未発見のまま大量に埋もれている可能性が高い」
としています。
金子浩之(2000)がこのように述べる背景には、伊東市八幡野に鎮座する八幡宮来宮神社の社殿修復工事に伴った、社殿地下の発掘調査の際に、利用されている石材が安山岩類二種、凝灰岩質石材五種程度に分類されたことが挙げられています。
「都市江戸を構築するためには、城郭ばかりではなく、運河の護岸にしろ、上下水道にしろ、寺社仏閣や大名屋敷にしろ膨大な量の石材を必要とした筈である」
と述べています。
先人の功績⑤:「伊豆石」研究に必要な論点の整理
前述までの通り、金子浩之(2000)は2000年以降の伊豆石研究に向けて、多くの課題を指摘しました。
・近世前期の都市江戸の成立に際した「伊豆石」の民生利用に関する史料の欠如。
・近世の江戸の石塔への凝灰岩質の伊豆石利用の可能性。
・近代の品川台場などへの堅軟石を包括した利用の可能性。
・近代建築への石材利用が拡大していた事実とそのさらなる研究の必要性。
・「江戸、東京は、度重なる災害にみまわれることを契機としながら、次第に建築に石材を多用する指向をもってきた」という「伊豆石」の大局観の提示。
金子浩之(2000)以降の「伊豆石」研究
2015年静岡県報告書などで、安山岩系伊豆石、凝灰岩系伊豆石を包括的に捉えた研究の必要性が大きく取り上げられました。そして、
・近世前期の都市江戸の成立に際した「伊豆石」の民生利用に関する史料の欠如。
→熱海市報告書内で商用丁場の存在が確認される(名称は「青石」「白石」)。
・近世の江戸の石塔への凝灰岩質の伊豆石利用の可能性。
→墓石や石塔研究による流通の判明。
・近代の品川台場などへの堅軟石を包括した利用の可能性。
→品川台場建設における石材供給の実態解明。
・近代建築への石材利用が拡大していた事実とそのさらなる研究の必要性。
→伊豆石文化探究会が率先して行っている分野。
このようにして、その後の10年余りの間に「伊豆石」の包括的な研究は進捗を見せてきました。
問い直される伊豆石の分類法
・安山岩凝灰岩質分類法の欠点:『日本百科大辞典』第1巻は近代の限定的な時代における事例を取り上げた「伊豆石」の説明であり、金子浩之(2000)の述べる中世・近世の伊豆石の分類に西洋的な地質学の分類を当てはめるのには無理があることは、研究者たちが感じてきたことです。近世の文書的には、城郭用石材として「御用石」「堅石」「伊豆石山」などの用語がある一方で、民生利用されていたとされる石材は、冥加金運上金の租税の記録から「青石」「白石」「切石」などの分類があります。
・地質学的分類の正しい表記:この20年ほどで判明してきた伊豆石の種類の多さを鑑みると、「安山岩系」「凝灰岩系」の用語に当てはまらない重要な石材も多々見られるようになりました。たとえば、砂岩、玄武岩、デイサイトなどです。このように考えると、伊豆半島の地質学的な成り立ちから「伊豆半島および其周辺を産地とする石材は、火成岩、堆積岩に大別される」と述べるのが学術的には妥当です。明治期にはすでに、「火成岩」「水成岩(現在でいう堆積岩)」に大別する石材の分類なども行われています。
・堅軟分類法の欠点:「堅石」の語が、近世の御用石需要の中で用語として用いられていた反面、「軟石」という言葉はむしろ明治中期の北海道開拓関連資料に多く見られます。つまり、札幌軟石、小樽軟石などの用語の中で軟石という言葉が普及してきたように思われます。大正12年の保岡勝也著『最新住宅建築』鈴木書店において、石材を「花崗岩」「堅石」「軟石」「硬石」「大理石」に分類した紹介が行われ、伊豆半島および其周辺産の石材についてもこの分類に当てはめられました。つまり、堅軟分類法を古代から続く伊豆石産業の分類として唯一無二のものとして扱うのには厳しさがあります。
・堅軟分類法を用いる際の注意点:簡易的に堅石と軟石に石材を分類する場合には注意を払う必要があります。
注意1:「堅石は主に築城石への利用で、軟石は主に建築物への利用である」という表記は厳密には誤記です。なぜなら、堅石は近代土木建築に重用され、近代採石技術が伝播した地は、江戸城の築城石で有名な「富戸」のエリアであるため、堅石の主要な用途が築城石であった一方的には述べられない事実が明らかになっています。また、金子浩之(2000)以降従来的に「軟石」とされる石材の近世での民生利用が次々に明らかになっています。
注意2:「堅石は安山岩系、軟石は凝灰岩系である」という表記は厳密には誤記です。火成岩の中にも軟らかい石材が存在し、堆積岩にも加工にあたっては“堅い”とされる石材が多分に存在することがわかってきています。
注意3:「堅石は主に近世で、軟石は主に近代の利用である」という表記も厳密には誤記です。理由は注意1で前述のとおりです。
・地域の名前を冠した石材の種類が多く判明してきました。
・用途ごとに分類された石材の名称についても光を当てる必要があります。
まとめ
このように、安山岩凝灰岩質分類法や堅軟分類法によって一概に説明がつかない事例が多発しているため、この二つの分類法を用いて説明を行うメリットが低下しつつあるのが現状です。
そこで、正確な情報発信に徐々にシフトしていきたい伊豆石文化探究会としては、
金子浩之(2000)の、
「江戸、東京は、度重なる災害にみまわれることを契機としながら、次第に建築に石材を多用する指向をもってきた」
という「伊豆石」の大局観を支持します。
よって「伊豆石」を“石”ではなく一つの産業・文化として捉え、分類は時と場合によって使い分ける方法を選択しています。今後様々な、「伊豆石」の分類や名称が提示され、時と場合によって使い分けが行われるようになるよう議論を行っています。
「伊豆石」の説明はこのようにしたら良いと思います
・伊豆石は、伊豆半島および其周辺から産出される石材の総称です
・伊豆石は、どの時代でもその堅軟によって使い分けがされてきたと考えられます
・伊豆石は、地質学的には火成岩と堆積岩に大別されます
・伊豆石は、古くから広域流通材として伊豆半島周辺のみならず様々な地域で利用されてきた可能性が指摘されています
・伊豆石産業、伊豆石文化の大きな功績は、江戸や東京の都市形成に際し官需民需ともに多大に貢献した点です
・伊豆半島および其周辺産に該当しそうな石材を見つけたら「伊豆石の○○石(○○は地域名や用途)」で呼ぶのが理想だと思います。例:「伊豆石の沢田石」「伊豆石の横根沢石」「伊豆石の間知石」「伊豆石の竈門石」
・細かな分類がわからない場合は単にカッコ付きの「伊豆石(=伊豆半島および其周辺から産出される石材)」と呼ぶか、「伊豆半島産の石材と思われる」と述べるのが安全です。
・単にカッコ付きの「伊豆石」と述べる場合には、「伊豆半島および其周辺から産出される石材」として述べているのか「伊豆石の産業」「伊豆石の文化」として述べているのかに意識すると、理解が容易となります。
・このほか「伊豆石産業」「伊豆石文化」という風に個々の"石"として述べているのか、産業文化として述べているのか明確にして誤解を避ける方法も考えらえます。
※相対的に単純な切り分けができなくなってきたことで、使用するメリットが低下してきているものの、引き続き「安山岩凝灰岩質分類法」や「堅軟石分類法」を用いることが間違いであるわけでもありませんし、先行研究では極めて慎重にこの二つの分類法を定義している点の配慮などを踏まえると、これらが非常に素晴らしい功績であることに変わりはありません。
参考:明治期から昭和期にかけての辞書中の伊豆石
・『言海』第1、大槻文彦(M22):伊豆石:伊豆国より産出する石材の汎称。
・『日本百科大辞典』第1巻、三省堂編纂書(M41):伊豆石:静岡県伊豆国より産する石材、硬石、軟石の二種あり硬石は、輝石安山岩若しくは英閃安山岩にして、一般に石理緻密、石室堅硬、抵抗力極めて強く、耐久の度に於て花崗岩の追伸し、耐火の度に於てはこれに優り、脈光澤を呈し、色彩の佳麗ならざるを欠点とす。軟石は凝灰岩に属し、多くは火山岩の破片を混じて斑紋を呈す凝灰砂岩なり。従て其色彩一ならず、白灰黄褐又は緑灰色に種々の雑色を混ず。一般に凝集及抵抗力弱く、侵食風化作用を受け易し。されど耐火性強く自在に工加して、竈・火爐等の製造に適し、又敷石・土蔵・窓石等普通の建築に用ひ、其外面を塗るにセメント・コールタールの類を以てすれば、雨水の崩壊作用を防ぐことを得べし。その採掘は河海に近くして運搬の便のある地方に発達せり。硬石中輝石安山岩は、半島頸部の東岸吉浜村(相模)に産し、小松石の名あり。英閃安山岩は半島頸部西岸の江ノ浦湾頭獅子浜(駿河)を主産地とし、其柱状節理を利用して六角柱の石材を存したるものは小室内と称す。軟石は採掘容易に価格低廉にして其需要広きがゆえに、南部海岸の各地及北部江ノ浦沿岸より盛に産出し、総価格五万円以上に達せり。中に就き南部海岸の南端に近き手石川に臨める南中村、下田付近の稲生澤村及下河津村特に名高く、下河津村より産するものは凝灰岩に属し、沢田石の名あり。又下田付近より産する凝灰砂岩は凝灰岩に火すれば質固く、色少々白く、俗に伊豆花崗石と称する。伊豆石は徳川幕府時代に至り、江戸城造営のことありてより、大に其需要を増すに至れり、徳川実紀三(慶長十一年二月の条)に、「この江戸修築の事により、兼て仰を承りたる西国大名参府して、おのおの家主に命じ、人数若干伊豆の国に遣はし、石材をとらしめ、三千余艘にのせて江戸に運送す、石垣七百間、高十二間、あるひは十三間の料なり、この買百人持の石は銀二十枚、ごろか石一箱金三両にさだめしとぞ、関東の諸大名は去年御上洛の供奉したるにより、この課役をゆるされ、供奉せざりしともが○は、千石一人の定○をもて人夫を出さしめらる(当代記)」と見ゆ。
・『辞林』4版、三省堂(M43):伊豆石(名)伊豆国より出だす石材
・『大言海』第1巻、富山房(S7):伊豆石(名)伊豆国ノ諸所ヨリ産出スル石材ノ汎称。堅キ質ノモノヲ、小松石ト称シ、軟ラカキモノハ凝灰岩ナリ、共ニ、建築、其他、種種ノ工事ニモチヰル